せのをやの歴史

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せのをやは江戸時代・安政年間に米問屋として西大寺の地に開業しました。

西大寺会陽(はだか祭り)で有名な古刹:西大寺観音院の門前、高瀬舟で運ばれる往来品の行きかう商業の要地に店を構え
明治16年、現在の「皆足眼鏡本舗せのをや」の祖となる眼鏡・時計などの小間物店を創業しました。
以来、130年の経験を受け継ぎ次の時代へと新たな歴史を刻みます。

江戸時代
江戸
江戸時代、当主は嘉平を襲名していました。
西大寺は吉井川の水利を活かして、県北津山との物流の拠点として、岡山(備前藩)の物流の要として栄えていました。
せのをやはこの頃米問屋を営んでおり、商売も繁盛していたようです。





明治初期
明治
写真は西大寺観音院の本堂大床の壁面にかかる大絵馬です。
明治10年、狩野永朝の筆で、当時の会陽(はだか祭り)の賑わいが描かれています。
絵の中央、竜宮門の脇に「やませ」(せのをや)の米蔵があるのが見えます。 激動の時代、せのをやもまた世相の変化、経済の流れの変化にあわせて家業を模索していたのではないかと思います。
明治期
明治
明治16年、交通・物流の変化により、せのをやは米問屋から、当時の最先端の商品を扱う小間物屋になりました。これが現在のメガネ店の祖となります。
写真では自転車が店頭に並んでいるのがわかるとおり、メガネに限らず、舶来の時計や宝飾をはじめ、様々なものが並んでいました。 舶来のものを持つことがステータスであり、豊かさと自由の象徴ともいえた時代ならではの商売替えだったのではないでしょうか。
当店のシンボルでもあるホールクロックがこの頃(1886年)から店頭に置かれました。
大正期~昭和初期
大正
間口7間のショーウインドウは、当時は珍しいガラスウインドウで、京都から職人を呼んできて施工したそうです。
看板には「メガネ・万年筆、喫煙具、時計、貴金属」が描かれています。
ウインドウには腕時計と宝石がびっしりと並んでいます。
この頃から時計やメガネは広く民衆のもとの普及していきました。時計なども舶来品だけでなく国産のものが多数作られるようになった時代です。
昭和30年代~
昭和
戦争後のもののない時代から、日本は総力を挙げて生活の向上を目指しました。
地方の商店はその需要にともない、便利なもの・快適な商品を供給することにつとめます。時計もメガネも人々にとって必需品であり、生活向上のステータスとなりました。
時計もメガネも日本独自のものがどんどん開発され、これまで機械式が主だった時計が電池を使用するクオーツ時計にとってかわったのもこの頃です。
当主は6代:永光金市から7代:永光貞二へと代わります。
昭和末期
現在
当代当主(8代:永光勝之)に家業が受け継がれ、メガネの専門店として新たに生まれ変わりました。
需要の少なくなった貴金属販売や時計販売・修理は規模を縮小し、高齢化社会に対応すべく補聴器販売をスタートします。
人々が豊かになりモノが溢れてきたこの時代、ただ単に商品を売るだけではなく、技術の研修によってよりお一人お一人のお客様のニーズにお応えできるメガネ作りに専念しています。
平成期
現在

現在屋号の前に掲げる「皆足眼鏡本舗」は「みなたるめがねほんぽ」と読みます。
「皆足」とは、備前西大寺の生みの親といわれる「藤原皆足媛(ふじわらのみなたるひめ)」伝説に由来し、 お客様の五福(眼福・顔福・脳福・体福・口福)とすべて(皆)の満足を願って命名しました。
皆足媛について、当店店主が西大寺観音院に伝わる伝説をひも解き、物語風に仕上げたサイトを開設しています。 こちらもあわせてご覧ください。
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